白いリンゴの花びらが、銀色に輝く枝から舞い落ちる。風もないのに、枝は妙なる音楽を奏で、聞く者の心を深い眠りへと誘う——
それは異世界からの招待状。選ばれた者だけが手にできる、永遠の楽園への通行証。
霧深いアイルランドの海の彼方には、誰も見たことのない島が浮かんでいるという。そこでは永遠にリンゴの木が実り、老いも死もなく、苦しみも悲しみも存在しない。その島の名は「マグ・メル(喜びの原)」「エヴァン」、そして「ティル・ナ・ノーグ(常若の国)」——
これは、一人の王子が銀の枝に導かれ、海を越えて異世界へと旅立った物語。そして、なぜケルトの人々が、リンゴの木に永遠の命を見出したのか。その神秘に満ちた伝承です。
妙なる音楽と銀の枝——運命の出会い
ある日のこと。フェヴァル王の息子、ブラン王子が王宮の近くを一人歩いていると、どこからともなく不思議な音楽が聞こえてきました。
それは、この世のものとは思えない美しい調べ。心を揺さぶる優しいメロディーが、王子の全身を包み込みます。音楽はどこから来るのか。王子は辺りを見回しますが、誰の姿も見えません。
そして、やがて——
音楽に包まれたブラン王子は、その場で深い眠りに落ちてしまったのです。
どれほどの時が流れたでしょうか。目を覚ましたブラン王子の傍らには、見たこともない美しいものが置かれていました。
白いリンゴの花を咲かせた、銀色に輝く枝。
銀の枝は月光のように輝き、そこに咲く白い花は、まるで雪の結晶のように繊細で清らかでした。王子は驚きながらも、その枝を手に取ります。すると枝は優しく揺れ、再び妙なる音楽を奏で始めたのです。
ブラン王子は銀の枝を手に、王宮へと戻りました。
異界の女性——エヴァンからの歌
その夜、王宮では宴が開かれていました。ブラン王子が家臣たちと共に広間にいると、突然、誰も見たことのない女性が現れます。
その女性は、不思議な衣装をまとい、この世のものとは思えない美しさを放っていました。まるで霧の中から現れたかのように、誰も彼女がどこから来たのかわかりません。扉も開けずに、ただそこに立っていたのです。
女性はブラン王子をまっすぐに見つめると、歌い始めました——
「はるか大海の向こうに、エヴァンという島があります」
「そこには銀のリンゴの木が生い茂り、一年中、白い花と金色の実を同時につけています」
「そこには苦悩も、悲哀も、老いも病も、死さえもありません」
「永遠に若く、永遠に美しく、永遠に幸せな人々が暮らしているのです」
「音楽が絶えず流れ、笑い声が響き、美味しい食べ物と飲み物が尽きることはありません」
「ブラン王子よ、あなたは選ばれました。その銀の枝を持って、海を渡りなさい」
「エヴァンがあなたを待っています」
歌が終わると、女性は銀の枝に手を伸ばしました。ブラン王子は枝を握りしめようとしますが、不思議なことに、枝は王子の手から離れ、まるで磁石に引き寄せられるように女性の手に吸い込まれていきます。
そして女性は、銀の枝を持ったまま——霧のように消えてしまいました。
決意——未知なる航海へ
その夜、ブラン王子は眠れませんでした。
脳裏には、あの女性の歌が繰り返し響いています。
エヴァン——永遠の若さ、永遠の幸せ、永遠の命。
苦しみも悲しみもない楽園。リンゴの木が永遠に実り続ける島。
「行かなければならない」
ブラン王子の胸に、強い確信が芽生えました。あの銀の枝は、自分への招待状だったのだ。あの女性は、自分を異世界へと導くために現れたのだ、と。
翌朝、ブラン王子は27人の仲間を集め、船に乗り込みました。
「我々は、エヴァンを目指す」
誰も見たことのない島。誰も知らない場所。海図にも載っていない異世界への航海——それは、狂気の沙汰に思えたかもしれません。
しかし、ブラン王子の瞳には迷いがありませんでした。そして、仲間たちもまた、王子を信じて船を漕ぎ出したのです。
海神マナナーン・マク・リル——異界との境界

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大海原へと漕ぎ出したブラン王子たちは、何日も何日も海を進みました。
陸地は遠く水平線の彼方に消え、周囲には果てしない海だけが広がっています。波の音と、櫂を漕ぐ音だけが響く静寂の中、一行は黙々と前へ進み続けました。
すると——
前方から、一台の戦車が近づいてくるではありませんか。
しかし、それは陸の上を走る戦車ではありませんでした。海の上を、まるで草原を駆けるように、軽々と走ってくる戦車だったのです。
戦車を駆るのは、堂々とした姿の美しい戦士でした。極彩色のマントをなびかせ、神々しいまでの威厳を放つその人物こそ——海神マナナーン・マク・リル。
「ようこそ、人間の子よ」
マナナーンは、優しく微笑みながら語りかけました。
「お前たちにとっては、ここは果てしない大海原に見えるだろう。だが、私にとっては——」
海神は手を広げ、周囲を示します。
「ここはマイヒ・メル(喜びの原)。花が咲き誇る草原なのだ」

ブラン王子たちには見えない景色を、マナナーンは見ていました。水の下には美しい花々が咲き乱れ、馬が駆け、人々が笑い、音楽が奏でられている——それが、海神の見る世界だったのです。
「この場所で、お前たちの世界と、私たちの世界が交わっている」
マナナーンは長い詩を歌い、異世界の素晴らしさを語りました。そして最後に、こう告げます。
「女の国は、もう間近だ。日没までには到着するだろう。幸運を祈る」
そう言って、海神は戦車を駆り、波の向こうへと消えていきました。
喜びの島——笑い続ける人々
マナナーンとの邂逅に勇気づけられたブラン王子たちは、さらに船を進めました。
すると、やがて——小さな島が見えてきます。
「島だ!」
仲間たちが喜びの声を上げました。これがエヴァンなのだろうか。ブラン王子たちは期待に胸を膨らませます。
しかし、島に近づくにつれ、一行は不思議なものを目にしました。
島には人々がいます。しかし、その人々は皆——笑っているのです。
ただ笑っているだけではありません。まるで何かに取り憑かれたかのように、絶え間なく、永遠に、笑い続けているのです。
「何か様子がおかしい…」
ブラン王子は慎重に考えました。これはエヴァンではない。何か別の島だ、と。
「斥候を一人、送ろう」
一人の仲間が小舟で島へと向かいます。彼は島に上陸し、笑い続ける人々に話しかけました。
すると——
その瞬間、斥候もまた笑い始めたのです。
「ハハハハハ!ハハハハハ!」
何を聞いても、ただ笑うばかり。呼びかけても返事はなく、ただ永遠に笑い続けるだけ。
ブラン王子たちは何度も呼びかけましたが、仲間は笑い続けるばかりで、船に戻ってくる様子はありません。
「仕方がない…」
悲しみと共に、ブラン王子たちは仲間を島に残し、船を漕ぎ出しました。
後にこの島はイニス・スバイ(喜びの島)と呼ばれるようになります。そこには異界の一種の魔法がかかっており、島に足を踏み入れた者は、永遠の笑いに囚われてしまうのだと——
エヴァン——リンゴの楽園

Public Domain,Wikimedia Commons
一人の仲間を失った悲しみを胸に、ブラン王子たちはさらに航海を続けました。
そして、ついに——
真のエヴァンに到着したのです。
島に近づくと、まず目に飛び込んできたのは、一面に広がるリンゴの木でした。銀色に輝く枝に、白い花と金色の実が同時についています。あの不思議な女性が歌った通り——一年中、花と実をつける魔法のリンゴの木。
島には美しい人々が暮らしており、彼らは心から歓迎してくれました。
「ようこそ、ブラン王子。ずっとあなたを待っていました」
島の人々は、まるで古くからの友人のようにブラン王子を迎え入れます。不思議なことに、ブラン王子は初めてこの島を訪れたにもかかわらず、どこか懐かしさを感じるのでした。
エヴァンでは、時間の流れが異なっていました。
一日が一年のように長く感じられ、しかし苦痛はありません。音楽が絶えず流れ、美味しい食べ物と飲み物が尽きることなく供され、誰も老いず、誰も病むことがありません。
永遠の若さ。永遠の幸せ。永遠の命——
それがエヴァンでした。
ブラン王子たちは、この楽園で長い時を過ごしました。どれほどの時間が経ったのか、誰にもわかりません。一年だったのか、十年だったのか、それとも百年だったのか——
時間の感覚さえも、溶けてなくなってしまうような場所だったのです。
帰還——失われた時間
やがて、ブラン王子の仲間の一人が言いました。
「故郷が恋しい。アイルランドに帰りたい」
その言葉は、まるで呪文を解くかのように、王子たちの心に故郷への思いを呼び覚ましました。
確かに、エヴァンは素晴らしい。しかし、自分たちには帰るべき場所がある。家族がいる。友がいる——
ブラン王子たちは、エヴァンの人々に別れを告げました。
「帰るのですか」
島の人々は悲しそうに言いました。
「よろしいでしょう。しかし、一つだけ約束してください」
「決して、陸に降りてはいけません」
「アイルランドの土を踏んではいけません。もし踏めば、あなたがたの体に、この島で流れなかった時間がすべて一度に押し寄せてくるでしょう」
王子たちはその警告を胸に刻み、船に乗り込みました。
航海を経て、懐かしいアイルランドの海岸が見えてきます。
「帰ってきた!」
仲間たちは喜びの声を上げました。しかし、何かが違います。海岸には見知らぬ人々がいて、見知らぬ建物が建っています。
「おい!」ブラン王子は船から呼びかけました。「ここはどこだ?フェヴァル王の領地か?」
海岸にいた老人が、不思議そうに王子たちを見上げます。
「フェヴァル王?そんな王は知らぬ」
「しかし…古い伝説には、そういう名の王がいたと聞いたことがある」
「何百年も昔の話だ」
何百年も昔——
ブラン王子たちは愕然としました。エヴァンで過ごした時間は、ほんの数年だと思っていました。しかし、人間界では、何百年もの時が流れていたのです。
その時、仲間の一人が、我慢できずに船から飛び降りてしまいました。
「やめろ!」
ブラン王子の制止も間に合いません。
仲間の足が、アイルランドの土を踏んだ瞬間——
彼の体は、みるみるうちに老いていきました。若々しかった姿が、瞬く間に老人になり、さらに老い、そして——灰となって風に舞い、消えてしまったのです。
流れなかった何百年という時間が、一瞬で彼を襲ったのでした。
永遠の航海者
ブラン王子は、深い悲しみに包まれました。
故郷に帰ることはできない。陸に降りれば、自分たちも灰になってしまう——
王子は、海岸の人々に向かって叫びました。
「私はブラン王子だ!フェヴァル王の息子だ!」
「私たちは、エヴァンへ航海し、今戻ってきた!」
「この物語を語り継いでくれ!銀の枝と、リンゴの島と、永遠の楽園のことを!」
そう告げると、ブラン王子たちは再び船を漕ぎ出しました。
それから、ブラン王子たちがどうなったのか——誰も知りません。
エヴァンへ戻ったのか、それとも今も海を彷徨っているのか。
ただ、霧深い夜、アイルランドの海で、遠くから妙なる音楽が聞こえてくることがあるといいます。それは銀の枝の音色だと——人々はささやくのです。
リンゴに込められた永遠の願い
なぜ、ケルトの人々は、リンゴに「永遠の命」を見出したのでしょうか。
春になると、リンゴの木は美しい白い花を咲かせます。まるで雪が降り積もったかのような、清らかで純粋な花々。
そして秋には、豊かな実をつけます。赤く、金色に輝く果実。それは命の象徴でした。
冬になると、リンゴの木は葉を落とし、「死んだ」ように見えます。しかし——春が来ると、再び芽吹き、花を咲かせる。
死と再生。終わりと始まり。永遠の循環——
古代ケルト人は、リンゴの木にそれを見たのです。
リンゴは保存が効き、冬の間も食べられる貴重な果実でした。厳しい冬を生き延びるための、命の糧。実際に、リンゴは食物繊維やビタミンC、ミネラルを豊富に含み、整腸作用や血糖値の正常化、血圧低下、抗炎症作用など、多くの健康効果を持っています。
「1日1個のリンゴで医者いらず」という西洋のことわざは、古代から受け継がれてきた知恵の結晶です。
海神マナナーン・マク・リル——異界の守護者
ブラン王子の物語で重要な役割を果たすのが、海神マナナーン・マク・リルです。
マナナーンは、海の擬人化である父リール(Lir)の息子として、古代アイルランドで最も力のある神の一人とされていました。彼は単なる海の神ではなく、異界の守護者でもあったのです。
人間との戦いに敗れたダーナ神族(トゥアハ・デ・ダナーン)が、人間界から異界へと移り住む際、どの妖精丘(シー)に誰が住むべきかを采配したのがマナナーンでした。彼は一族に常若の饗応(ゴヴニュの饗応)をふるまい、永遠の若さを保たせたのです。
マナナーンは、数々の魔法の道具を持っていました。
極彩色のマントを振ることで、姿を変えたり、嵐を起こしたり、会いたくない相手と縁を切って二度と会えなくすることができました。
美しい音楽を奏でる杖を持ち、これを振れば聞く者を一日の間、決して目覚めない眠りにつかせることができたといいます。
移動には自ら目的地まで進む船「静波号」や、水中でも陸でも風のように走る馬(または戦車)を使い、世界中を旅していました。
海が荒れるときは「マナナーンの妻の髪が投げられている」と表現され、水夫たちは「岬の神様」マナナーンに加護を祈ったのです。
ブラン王子の物語で、マナナーンが「お前たちには海に見えるだろうが、私には花咲く草原に見える」と語る場面は、まさに異界と人間界の境界を象徴しています。
同じ場所であっても、見る者によって全く異なる世界が広がっている——それがケルト神話における「異界」の本質でした。
リンゴの木を育てる——現代に蘇る神秘

現代の私たちは、エヴァンに行くことはできません。
しかし、リンゴの木を育てることはできます。
春、自宅の庭や鉢でリンゴの花が咲くとき——白やピンクの可憐な花が枝いっぱいに広がるとき——私たちは確かに、ブラン王子が見たあの銀の枝の美しさを感じることができるのです。
秋、真っ赤に色づいた果実を手に取るとき、それは何百年、何千年も前の人々が感じた「生命の循環」「自然の神秘」と同じものです。
リンゴの木を育てることは、古代から受け継がれてきた、自然への畏敬の念を現代に蘇らせる行為。
それは、永遠の若さ、永遠の幸せ、永遠の命を願った古代人の思いに触れること。
それは、ブラン王子が銀の枝を手にしたあの瞬間の、胸の高鳴りを追体験すること——
銀の枝は今も

霧の夜、静かに耳を澄ませてみてください。
風もないのに、どこからか妙なる音楽が聞こえてくるかもしれません。
それは、今も海を航海しているブラン王子の船から聞こえてくる、銀の枝の音色かもしれません。
あるいは——
それは、あなたの庭で育つリンゴの木が、春の訪れを告げる歌かもしれません。
白い花びらが風に舞うとき、金色の実が陽の光を受けて輝くとき——
私たちは確かに、永遠の楽園の一片を、この手に掴むことができるのです。
リンゴの植物情報

学名: Malus pumila
科名: バラ科リンゴ属
原産地: ヨーロッパ東南部〜アジア西部
花の特徴: 4月中旬〜下旬に、白または淡いピンク色の花を咲かせます。花径3〜4cmの花が5〜7個ほどまとまって咲く姿は、まさに銀の枝を思わせる美しさです。
樹形: 放任すれば傘型の樹形になり、樹高は2〜5m。若い木の樹皮は黒紫色、樹齢を重ねると灰褐色に変わります。
耐寒性: マイナス30度前後まで耐える非常に強い耐寒性を持ちますが、年平均気温6〜14度の冷涼な気候を好みます。
ケルト神話編
- ルーとハシバミの木 – 知恵の泉と光の神
- ブリギッドとローワン – 炎の女神と魔除けの木
- モリガンとイチイ – 戦いの女神と死と再生の木
- ヤドリギの神話 – 黄金の枝と万能薬
- ブロデュウェッズ – 花から生まれた女性の悲劇
他の神話シリーズ
