黄泉比良坂(よもつひらさか)。
生者と死者の境界。
光と闇の、狭間。
その場所で、夫と妻が、最後の言葉を交わしていました。
イザナギとイザナミ──日本を生んだ二柱の神。

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しかし、今、二人は敵同士のように向き合っています。
イザナミは言いました。
「あなたの国の人を、一日千人、黄泉へ迎え入れましょう」
イザナギは答えました。
「ならば私は、一日千五百の産屋を建てましょう」
生と死が、分かれた瞬間でした。
しかし、その時──
一人の女神が、現れました。
ククリヒメ(菊理媛神)。
彼女は、何かを言いました。
『日本書紀』には、その内容が書かれていません。
ただ、「ある言葉を申し上げた」とだけ。
その言葉を聞いて、イザナギは言いました。
「よきかな」
そして、去っていきました。
たった一言で、すべてが変わりました。
何を言ったのか、誰も知りません。
しかし、その言葉は──
夫と妻を、生と死を、この世とあの世を──
結んだのです。
ククリヒメに捧げられる花があります。
菊──永遠の命を宿す、気高い花。
今回は、一度しか現れなかった謎の女神と、日本を代表する花の物語です。
たった一度の登場

黄泉比良坂の対峙
物語は、イザナギの旅から始まります。
妻イザナミが亡くなり、黄泉の国へ行ってしまいました。
イザナギは、妻を取り戻そうと、黄泉の国を訪れます。
しかし──
暗闇の中で見たイザナミの姿は、生前とはまったく違っていました。
腐敗し、蛆が湧き、雷神が宿っていました。
イザナギは、逃げました。
イザナミは、怒りました。
「私に恥をかかせた!」
黄泉の国の醜女たちに、イザナギを追わせました。
イザナギは、必死に逃げ、ようやく黄泉比良坂にたどり着きました。
生者の世界と、死者の世界の、境界線。
イザナギは、大きな岩で、道を塞ぎました。
千引の岩(ちびきのいわ)──千人でも動かせない、巨大な岩。
その岩を挟んで、イザナギとイザナミは、向き合いました。
離縁の言葉
イザナミは、岩の向こうから言いました。
「愛しい夫よ、こんなことをするのなら──」
「あなたの国の人を、一日に千人、黄泉へ迎え入れましょう」
イザナギは、答えました。
「愛しい妻よ、それならば──」
「私は一日に、千五百の産屋を建てましょう」
これが、生と死の始まりでした。
一日に千人が命を終え、千五百人が生まれる。
人は終わりを迎えるようになったけれど、 人は生まれ続ける。
生と死の、バランス。
この言葉で、イザナギとイザナミは、完全に別れるはずでした。
夫婦でなくなり、 ただの生の神と死の神になるはずでした。
しかし──
ククリヒメの一言
その時、突然、女神が現れました。
ククリヒメ。
どこから来たのか、書かれていません。
何者なのかも、詳しく書かれていません。
ただ、現れました。
そして、何かを言いました。
『日本書紀』の記述は、こうです。
「時に、菊理媛神、亦(また)白すことあり」
「白す」──申し上げる、言う、という意味。
しかし──
何を言ったのか、書かれていません。
なぜでしょうか。
忘れられたのでしょうか。
それとも──
あえて、書かなかったのでしょうか。
その言葉を聞いて、イザナギは言いました。
「よきかな(良いことだ)」
そして、黄泉比良坂を去りました。
イザナミも、黄泉の国へ戻りました。
争いは、終わりました。
たった一言で。
「結ぶ」女神
ククリの意味
ククリヒメ──この名前には、意味があります。
「ククリ」は、「括る(くくる)」から来ていると言われます。
括る=結ぶ、まとめる、束ねる。
離れたものを、結び合わせる。
イザナギとイザナミは、離れようとしていました。
生と死に、分かれようとしていました。
しかし、ククリヒメが現れて──
結んだのです。
完全に離れることもなく、 完全に一つになることもなく。
ただ、結んだ。
結ぶとは、不思議なことです。
二つのものは、別々のまま。
しかし、繋がっている。
独立していながら、関係している。
夫婦も、そうかもしれません。
親子も、そうかもしれません。
生と死も、そうかもしれません。
別々だけれど、繋がっている。
境界の女神
ククリヒメが現れたのは、黄泉比良坂でした。
境界です。
生者の世界と、死者の世界の。
光の世界と、闇の世界の。
境界は、特別な場所です。
どちらでもない。
どちらでもある。
境界にいる存在は、両方が見えます。
生者の気持ちも、死者の気持ちも。
光の美しさも、闇の深さも。
だから、結べるのです。
片方からしか見ていない者には、結べません。
しかし、両方を見ている者は──
どちらも理解できます。
仲裁の女神
ククリヒメは、後に、縁結びの女神として信仰されるようになりました。
男女の縁を結ぶ。
人間関係の縁を結ぶ。
争いを仲裁する。
すべて、「結ぶ」力です。
ククリヒメは、争いの場に突然現れます。
一言だけ言います。
そして、去っていきます。
しかし、その一言が、すべてを変えます。
白山の女神

霊峰白山
白山(はくさん)──石川県、岐阜県、福井県にまたがる山。
標高2702メートル。
富士山、立山とともに、日本三霊山の一つです。
白山の山頂には、雪が積もります。
一年中、白く輝いています。
白い山──それが、名前の由来です。
そして、白は、清浄の色。
穢れのない、神聖な色。
白山は、神の山でした。
この山に、ククリヒメが祀られています。
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)──石川県白山市にある、白山信仰の総本宮。
全国に約三千社ある白山神社の中心です。
ここで、ククリヒメは、白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)として祀られています。
修験道の聖地

白山は、修験道の聖地でもありました。
修験道──山で修行し、超自然的な力を得ようとする、日本独自の宗教。
修験者たちは、白山に登り、滝に打たれ、断食し、祈りました。
自らを清め、神に近づこうとしました。
白山は、厳しい山です。
雪深く、険しく、容易に登れません。
しかし、だからこそ──
そこに登ることが、修行になりました。
苦しみを乗り越えた先に、 清らかな心が得られる、と。
ククリヒメの山は、浄化の山でした。
水の女神
白山から、いくつもの川が流れています。
手取川──石川県を流れる清流。
九頭竜川──福井県を流れる大河。
長良川──岐阜県を流れる清らかな川。
山の雪が溶けて、水になります。
水は、山を下り、川となります。
川は、田畑を潤し、人々を養います。
ククリヒメは、水をもたらす女神でもありました。
水は、結びます。
高いところから低いところへ。
山から海へ。
空から大地へ。
すべてを、繋ぎます。
ククリヒメが水の女神であることは、 彼女が「結ぶ」女神であることと、 同じ意味なのかもしれません。
白山は、古代から神聖な山とされてきました。
修験者たちが登り、修行し、神と交わる場所。
人間の世界と、神の世界の境界。
山は、まさにその境界でした。
菊 – 永遠の命を宿す花

菊とは
菊(きく)──日本を代表する花の一つ。
しかし、実は、原産地は中国です。
- 学名: Chrysanthemum morifolium
- 科: キク科
- 原産: 中国
- 渡来: 奈良時代(8世紀頃)
学名のChrysanthemumは、ギリシャ語で「金の花」という意味です。
菊は、多様です。
大きな花、小さな花。
一重咲き、八重咲き、管咲き、さじ咲き。
白、黄、赤、紫、ピンク──ありとあらゆる色。
しかし、すべて「菊」です。
不老長寿の花

中国には、古い伝説があります。
菊慈童(きくじどう)という少年の話です。
昔、中国の皇帝に仕えていた美しい少年がいました。
しかし、あるミスをして、山奥に追放されてしまいました。
少年は、山の中で、孤独に暮らしました。
ある日、不思議なことに気づきました。
菊の葉に溜まった露を飲むと、疲れが取れる。
少年は、毎日、菊の露を飲み続けました。
すると──
年を取らなくなりました。
何十年経っても、少年のまま。
何百年経っても、老いませんでした。
700年生きたと言われています。
この伝説から、菊は不老長寿の象徴となりました。
中国でも、日本でも、菊は特別な花として愛されました。
重陽の節句

9月9日──重陽の節句、別名菊の節句。
五節句の一つです。
「9」は、陽の数(奇数)の中で最も大きい数。
その9が重なる日だから、「重陽」。
非常におめでたい日とされました。
この日、人々は菊を愛でました。
菊酒を飲みました──菊の花びらを浮かべた酒。
菊枕を使いました──菊の花を詰めた枕。
菊の香りに包まれて眠ると、長生きできると信じられていました。
菊は、命を延ばす花でした。
皇室の紋章

日本の天皇家の紋章は、菊です。
十六弁八重表菊──16枚の花びらが二重になった菊の紋。
なぜ、菊が選ばれたのでしょうか。
諸説ありますが──
菊が、最も高貴な花とされていたから。
菊が、永遠を象徴するから。
天皇家の永続を願って、菊が選ばれたのかもしれません。
菊の紋章は、菊花紋章(きっかもんしょう)と呼ばれます。
天皇家しか使えない、最高位の紋章です。
日本のパスポートにも、菊の紋が刻まれています。
菊は、日本そのものを表す花になりました。
秋の花
菊は、秋に咲きます。
桜が春の花なら、菊は秋の花。
秋は、収穫の季節です。
実りの季節。
しかし、同時に──
終わりの季節でもあります。
葉が落ち、花が枯れ、冬が近づきます。
そんな秋の終わりに、菊は咲きます。
最後の花として。
他の花が散った後も、菊は咲き続けます。
霜が降りても、まだ咲いています。
耐える花です。
終わりの季節に咲くからこそ、 菊は、永遠を感じさせます。
すべてが終わっても、菊は咲いている。
終わりは、本当の終わりではない、と。
ククリヒメと菊
名前の響き
ククリヒメ
キク
音が、似ています。
偶然でしょうか。
それとも──
何か、繋がりがあるのでしょうか。
古代の人々は、音を大切にしました。
言霊(ことだま)──言葉には霊力が宿る、という信仰。
同じ音を持つものは、同じ本質を持つと考えられました。
ククリヒメとキクは、同じ響きを持っています。
だから、結びついたのかもしれません。
白山の菊
白山には、野生の菊が咲きます。
イワギク(岩菊)
ハクサンギク(白山菊)
小さな、白い花です。
岩場に、ひっそりと咲きます。
高山の厳しい環境でも、健気に咲きます。
まるで、ククリヒメの化身のように。
白山比咩神社にも、菊が供えられます。
ククリヒメと菊は、深く結びついています。
永遠と再生

菊は、不老長寿の象徴。
ククリヒメは、生と死を結ぶ女神。
どちらも、「永遠」に関わっています。
死んでも、終わりではない。
生と死は、繋がっている。
永遠の循環の中にある。
菊は、秋の終わりに咲きます。
すべてが枯れていく中で。
しかし、菊は咲き続けます。
終わりの中に、始まりを見せてくれます。
ククリヒメは、黄泉比良坂に現れました。
生と死の境界で。
別れの場所で。
しかし、彼女は結びました。
終わりを、新しい始まりに変えました。
菊とククリヒメは、同じことを教えてくれます。
終わりは、本当の終わりではない。
すべては、繋がっている。
永遠は、存在する。
結ぶとは何か
結ぶ。
紐を結ぶ。 縁を結ぶ。 約束を結ぶ。
結ぶとは、不思議なことです。
二つのものが、別々のまま、繋がります。
一つにはなりません。
混ざり合いません。
しかし、離れてもいません。
独立していながら、関係している。
結び目を見てください。
紐は、自分の形を保っています。
しかし、別の紐と、繋がっています。
結び目が、力を生みます。
日本の結びの文化
日本には、「結び」の文化があります。
水引──祝儀袋や贈り物に結ぶ、飾り紐。
組紐──何本もの糸を組み合わせて作る、美しい紐。
結び文──恋人に送る、結んだ手紙。
縁結び──神社で祈る、良縁。
なぜ、日本人は、結ぶことを大切にしてきたのでしょうか。
それは──
結びが、関係を形にするからかもしれません。
人と人の関係は、目に見えません。
愛も、友情も、絆も、見えません。
しかし、結び目は、見えます。
触れられます。
目に見えないものを、形にしたのが、結び目です。
現代に生きるククリヒメ

白山への参拝
今でも、多くの人が白山比咩神社を訪れます。
縁結びを願う人。
人間関係の調和を願う人。
争いの解決を願う人。
ククリヒメに、祈ります。
ククリヒメは、今も、結び続けています。
境界に咲く花
ククリヒメは、境界にいます。
生と死の境界。
この世とあの世の境界。
光と闇の境界。
そして、その境界に、菊が咲きます。
秋の終わり──夏と冬の境界。
一日の終わり──昼と夜の境界。
人生の節目──過去と未来の境界。
境界に、菊は咲きます。
境界は、不安な場所かもしれません。
どちらでもない。
どちらにも属さない。
しかし、境界は──
最も可能性がある場所でもあります。
まだ決まっていない。
まだ、どちらにでもなれる。
新しい何かが、生まれる場所。
ククリヒメは、境界にいます。
だから、結べるのです。
片方だけを見ていたら、結べません。
両方を見ているから、結べます。
菊は、境界に咲きます。
だから、美しいのです。
終わりを知っているから、 今を、より美しく咲けます。
境界は、終わりではありません。
結び目です。
そして、結び目から──
新しい何かが、始まります。
今夜、静かにしてみてください。
境界に立ってみてください。
昼と夜の境界。
目覚めと眠りの境界。
そこに、ククリヒメがいるかもしれません。
何も言わず、ただ、微笑んでいます。
そして、菊の香りが、漂ってきます。
どこからか、甘く、静かに。
ククリヒメは、今も、結び続けています。
何も語らず、ただ、そこに。
境界で、微笑みながら
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