竪琴の音色で石さえも泣かせた詩人オルペウス。愛する妻エウリュディケを蛇に奪われ、冥界へ降りて取り戻そうとした彼の物語は、ギリシャ神話で最も美しく、最も悲しい愛の物語です。バラは彼の流した血から生まれ、愛と悲しみの両方を纏う花となりました。音楽と薔薇が織りなす、永遠の愛の讃歌。
この記事でわかること ✓ オルペウスとはどんな神か(音楽と詩の半神) ✓ エウリュディケとの結婚と悲劇の別れ ✓ 冥界へ降りて妻を取り戻そうとした物語 ✓ 「振り返ってはいけない」約束と決定的な瞬間 ✓ オルペウスの死とバラの誕生 ✓ バラがアフロディーテの花とされる理由 ✓ 赤いバラと白いバラの神話的意味 ✓ オルペウス教とディオニュソスの秘儀 ✓ 音楽が持つ魂を動かす力 ✓ 愛と芸術の永遠性
振り返った瞬間

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竪琴の音色が、冥界に響いていました。
岩が泣き、死者が立ち止まり、 地獄の番犬ケルベロスさえも、静かに座り込みました。
オルペウス── 人間の中で最も美しい音楽を奏でる詩人が、 死者の国へ降りてきたのです。
妻を、取り戻すために。
ハデスは、史上初めて心を動かされました。 「よかろう。連れて帰るがいい。ただし──」
「地上に出るまで、決して振り返ってはならぬ」
オルペウスは歩き始めました。 背後に、妻エウリュディケがついてきています。 足音は聞こえません。亡霊だから。
不安が募ります。 本当についてきているのだろうか。 もう一度、あの顔が見たい──
光が見えた瞬間、オルペウスは振り返りました。
そして──すべてが終わりました。
これは、音楽と愛の、美しく痛ましい物語です。 そして、その悲しみから生まれた、紅い花の物語です。
オルペウス(Orpheus) – 音楽の神

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プロフィール
名前: オルペウス(Ὀρφεύς / Orpheus) 意味: 「闇」あるいは「歌」に由来すると言われる
役割・司るもの
- 音楽と詩
- 竪琴(リラ)の演奏
- 歌と吟遊
- 魂を動かす芸術
- オルペウス教の始祖
出自と家系
父: アポロン(音楽と予言の神)、あるいはオイアグロス王(トラキアの王) 母: カリオペ(叙事詩のムーサ、九人姉妹の長女)
オルペウスは、神と人間の血を引く半神(デミゴッド)です。
父がアポロンという説が最も有名で、 アポロンから黄金の竪琴を授けられたとされています。
母カリオペは、ムーサ(芸術の女神たち)の中でも最高位。 叙事詩──つまり、英雄の物語を語る詩の女神です。
神の音楽の才能と、人間の感情── この二つを併せ持った存在が、オルペウスでした。
音楽の力
オルペウスの竪琴の音色は、この世のすべてを魅了しました。
石が動き出し、川が流れを止め、木々が身を乗り出して聴き入りました。
猛獣たちは彼の足元に静かに座り、 鳥たちは空で翼を休めて耳を傾けました。
人間はもちろん、心を持たないはずのものまでもが── オルペウスの音楽に、魂を揺さぶられたのです。
これは、単なる「上手な演奏」ではありませんでした。
オルペウスの音楽には、魂そのものが込められていたのです。
喜び、悲しみ、愛、憧れ── すべての感情が、音となって溢れ出ました。
だから、聴く者すべてが心を動かされたのです。
アルゴー号の冒険

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オルペウスは、英雄イアソンのアルゴー号の冒険に参加しました。
金羊毛を求める旅──そこには、ヘラクレス、テセウス、カストルとポリュデウケスなど、 名だたる英雄たちが集まりました。
しかし、オルペウスは戦士ではありませんでした。
彼の武器は、竪琴でした。
セイレーンの島を通過する時──
この魔性の鳥女たちは、美しい歌声で船乗りたちを惑わし、 難破させることで知られていました。
しかし、オルペウスは竪琴を奏で、歌いました。
その音楽は、セイレーンの歌よりもさらに美しく── 英雄たちは誰一人、セイレーンの声に心を奪われることはありませんでした。
芸術が、魔法に勝ったのです。
嵐の夜には──
オルペウスの歌が、荒れ狂う波を静めました。
絶望した英雄たちの心を、勇気で満たしました。
音楽は、希望そのものでした。
エウリュディケ(Eurydice) – 失われた花嫁
結婚の日
オルペウスは、美しいニンフ(森の精霊)エウリュディケと恋に落ちました。
彼女もまた、オルペウスの音楽に魅了されていました。
二人は結婚しました。
結婚式の日、祝福の炎を灯すはずの松明が──
煙を上げるばかりで、明るく燃えませんでした。
神官たちは顔を曇らせました。
「これは、不吉な兆しです」
しかし、オルペウスとエウリュディケは気にしませんでした。
愛があれば、何も恐れることはない──
二人はそう信じていました。
蛇の一撃
結婚式の後、エウリュディケは森を散歩していました。
花を摘み、小鳥の声を聴き、幸せに満ちていました。
その時──
草むらから、一匹の毒蛇が飛び出しました。
エウリュディケの足首に、牙が突き刺さりました。
毒は瞬く間に全身に回りました。
彼女は倒れ、息を引き取りました。
結婚式の、その日のうちに。
オルペウスが駆けつけた時、すでに遅すぎました。
妻の体は冷たく、魂はもう冥界へ旅立っていました。
オルペウスは、竪琴を手に取りました。
そして──
人間がこれまで聴いたことのない、最も悲しい歌を歌いました。
森は静まり返りました。
鳥は鳴くのをやめ、川は流れを止め、 風さえも、息を潜めました。
すべてのものが、オルペウスの悲しみに圧倒されたのです。
冥界への旅

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決意
オルペウスは、決心しました。
冥界へ行く。
エウリュディケを、連れ戻す。
普通の人間が冥界へ行けば、二度と戻れません。
それは、生者が踏み入ってはならない領域です。
しかし、オルペウスには、音楽がありました。
音楽は、すべての境界を越える。
生と死の境界さえも──
冥界の入口
タイナロンの岬──
ペロポネソス半島の最南端、深い洞窟がありました。
ここが、冥界への入口の一つです。
オルペウスは、竪琴を抱えて降りていきました。
暗闇が、彼を飲み込みます。
冷たい風が、地の底から吹き上げてきます。
ステュクス川──
生者の世界と死者の世界を隔てる、黒い川です。
渡し守カロンは、死者の魂を対岸へ運びます。
しかし、生きた人間を乗せることはありません。
「帰れ。生者の来る場所ではない」
カロンは冷たく言い放ちました。
オルペウスは、何も言わず、竪琴を奏でました。
その音色に──
カロンの冷たい心が、揺れました。
何千年も死者を運び続けた彼が、初めて──
涙を流しました。
「……乗れ」
カロンは、オルペウスを小舟に乗せました。
ケルベロス
ステュクス川を渡ると、巨大な黒い門が立っていました。
そして、その門を守るのが──
ケルベロス──三つの頭を持つ、地獄の番犬。
誰も通さない。
生きた者は、絶対に。
ケルベロスは、唸り声を上げ、三つの口すべてから牙を剥きました。
オルペウスは、竪琴を奏でました。
ケルベロスの三つの頭が、ゆっくりと下がりました。
凶暴な目が、穏やかになりました。
そして──
三つの頭すべてが、地面に伏せました。
まるで、飼い主の足元で眠る犬のように。
オルペウスは、静かにその脇を通り過ぎました。
タルタロスの住人たち
冥界の奥深く、タルタロス──永遠の罰を受ける場所があります。
そこには、神々に逆らった者たちが、苦しみ続けていました。
タンタロス──
喉が渇いても水に届かず、腹が減っても果実に手が届かない。
永遠の渇きと飢えの刑。
シシュポス──
巨大な岩を山頂まで押し上げるが、頂上の直前で岩は転がり落ちる。
永遠に、同じ労働を繰り返す刑。
イクシオン──
炎の車輪に縛られ、永遠に回転し続ける刑。
ダナオスの娘たち──
底のない壺に、永遠に水を汲み続ける刑。
オルペウスが竪琴を奏でると──
すべての刑罰が、止まりました。
タンタロスの喉の渇きが、一瞬だけ癒されました。
シシュポスの岩が、転がり落ちませんでした。
イクシオンの車輪が、止まりました。
ダナオスの娘たちは、手を休めて聴き入りました。
永遠の苦しみさえも、音楽の前では沈黙したのです。
ハデスとペルセポネ
冥界の王ハデスと、その妻ペルセポネが、玉座に座っていました。
ハデスは、冷酷な支配者です。
死者の魂を決して手放しません。
ペルセポネは、春の女神ですが、冥界にいる間は暗い表情をしています。
オルペウスは、二人の前に進み出ました。
そして、竪琴を奏でながら、歌いました。
「愛の歌」──
エウリュディケへの愛。
引き裂かれた悲しみ。
再び彼女と共にいたいという、切なる願い。
冥界が、静まり返りました。
すべての魂が、耳を傾けました。
ペルセポネの目から、涙がこぼれました。
彼女もまた、かつてハデスに連れ去られ、 母デメテルと引き離されたのです。
だから、引き裂かれた愛の痛みが、わかったのです。
そして──
ハデスの頬にも、涙が伝いました。
冥界の王が泣く。
それは、世界が始まって以来、初めてのことでした。
「……オルペウスよ」
ハデスの声は、かすれていました。
「そなたの音楽は、余の心を動かした」
「エウリュディケを、連れて帰るがよい」
オルペウスの心に、光が射しました。
「ただし──」
ハデスは、厳かに言いました。
「地上に出るまで、決して振り返ってはならぬ」
「もし振り返れば、すべてが水泡に帰す」
振り返ってはいけない
冥界からの脱出
オルペウスは、歩き始めました。
背後に、エウリュディケがついてきているはずです。
しかし──
足音が聞こえません。
エウリュディケは、まだ亡霊です。
影のような存在。
だから、足音は立てないのです。
オルペウスは、ただ前を向いて歩きました。
心の中で、妻の名を呼びながら。
エウリュディケ──
ついてきてくれているよね?
本当に、そこにいるよね?
不安が、どんどん大きくなります。
ハデスが嘘をついたのではないか。
エウリュディケは、本当は来ていないのではないか。
ああ、もう一度──
あの顔が見たい。
声が聞きたい。
確かめたい。
暗闇が続きます。
まだ、地上の光は見えません。
時間の感覚が失われます。
どれだけ歩いたのか。
あとどれだけ歩けばいいのか。
そして──
遠くに、小さな光が見えました。
出口です。
地上です。
もうすぐ──
決定的な瞬間
光が、どんどん大きくなります。
オルペウスの心は、喜びで満たされました。
もう大丈夫だ。
もう着いた。
エウリュディケ──
そして、オルペウスは──
振り返りました。
そこに、エウリュディケがいました。
美しい顔。
愛おしい顔。
手を伸ばせば、届きそうな距離に。
しかし──
彼女の体は、まだ影の中にありました。
まだ、地上の光を浴びていませんでした。
「あなた……」
エウリュディケが、悲しそうに微笑みました。
「さようなら」
彼女の姿が、薄れていきます。
霧のように、消えていきます。
オルペウスは、手を伸ばしました。
しかし、何も掴めませんでした。
「エウリュディケ!!」
叫びは、冥界に響き渡りました。
しかし、もう遅すぎました。
エウリュディケは、冥界の奥深くへ引き戻されていきました。
二度目は、ありません。
ハデスは、二度と許しません。
永遠の別れが、訪れました。
なぜ振り返ったのか
なぜ、オルペウスは振り返ってしまったのでしょうか。
もう少し──あと数歩で、地上に出られたのに。
愛していたから。
あまりにも愛していたから、
確かめずにはいられなかったのです。
本当にそこにいるのか。
本当に取り戻せたのか。
夢ではないのか。
信じきれなかったのではありません。
信じたかったからこそ、確認したかったのです。
これは、人間の弱さの物語ではありません。
人間の愛の深さの物語です。
愛するがゆえに、我慢できなかった。
愛するがゆえに、見たかった。
愛するがゆえに、失った。
これが、愛の本質なのかもしれません。
オルペウスの最期
孤独な吟遊詩人
オルペウスは、地上に戻りました。
しかし、エウリュディケは、いませんでした。
彼は、二度と歌いませんでした。
いえ──歌えませんでした。
心が、空っぽになっていました。
トラキアの荒野を、さまよい歩きました。
誰とも話さず、何も食べず、ただ歩き続けました。
竪琴は、背中にぶら下げたまま。
時折、風が竪琴の弦を震わせました。
その音は、悲しげに響きました。
まるで、オルペウスの魂が泣いているように。
マイナデスの襲撃
ある日、マイナデス(バッカイ)──ディオニュソスに仕える狂乱の女性たちが、 オルペウスを見つけました。
彼女たちは、酒と音楽に酔い、山を駆け巡る者たちです。
「オルペウスだ!歌を歌って!」
マイナデスたちは、求めました。
しかし、オルペウスは答えませんでした。
無言で、立ち去ろうとしました。
「何故歌わない!」
「私たちを侮辱するのか!」
マイナデスたちは、怒りました。
いや──正確には、狂気に駆られました。
彼女たちは、オルペウスを襲いました。
石を投げ、槍を突き立て──
オルペウスを、引き裂きました。
伝説によれば、マイナデスが投げた石や槍は、
最初、オルペウスに当たりませんでした。
石も槍も、彼を傷つけることを拒んだのです。
しかし、マイナデスたちの狂った叫び声が、
オルペウスの音楽の残響をかき消した時──
石と槍は、ついにオルペウスに届きました。
詩人は、倒れました。
ヘブロス川
マイナデスたちは、オルペウスの体をバラバラに引き裂き、
ヘブロス川に投げ込みました。
しかし──
首と竪琴だけは、一緒に川を流れていきました。
そして、首は──
今も、歌い続けました。
「エウリュディケ……エウリュディケ……」
悲しい歌が、川に響きました。
川岸の木々が、身をかがめて聴き入りました。
首と竪琴は、エーゲ海を漂い、
ついにレスボス島に流れ着きました。
レスボス島の人々は、オルペウスの首を丁寧に葬りました。
そして竪琴を、アポロンの神殿に奉納しました。
その後、レスボス島は──
詩と音楽の島として、有名になりました。
女性詩人サッポーが生まれたのも、この島です。
オルペウスの魂が、島に宿ったのです。
星になった竪琴
ゼウスは、オルペウスの竪琴を天に上げ、星座にしました。
こと座(Lyra)です。
夏の夜空に輝く、小さいながらも美しい星座。
その中で最も明るい星は、ベガ(織女星)──
七夕の織姫です。
オルペウスの音楽は、こうして永遠に天に刻まれました。
星となって、今も輝き続けているのです。
バラ(Rosa) – 愛と悲しみの花

バラの起源
ギリシャ神話では、バラはアフロディーテ(愛と美の女神)の花とされています。
しかし、バラとオルペウスの関係も、深く語り継がれています。
オルペウスの血から、最初の赤いバラが咲いた──
という伝説があります。
マイナデスに引き裂かれた時、
オルペウスの血が大地に染み込みました。
その場所に、翌年の春──
真紅のバラが、咲きました。

それまで、バラは白かったと言われています。
しかし、オルペウスの悲しみと愛が、
バラを紅く染めたのです。
アフロディーテとバラ
もう一つの伝説では──
バラは、アフロディーテの恋人アドニスの死から生まれました。
美しい青年アドニスは、狩りの最中、猪に殺されました。
アフロディーテは悲嘆に暮れ、彼のもとへ駆けつけました。
その時、彼女は薔薇の茨で足を傷つけました。
女神の血が、白い薔薇を赤く染めました。
そして、アドニスの血が染み込んだ場所には、
アネモネの花が咲きました。
愛する者の死──
流された血──
そこから生まれる花──
美しい愛は、悲劇と共にある。
そして、その悲しみから、花が生まれる。
白いバラと赤いバラ

白いバラは、純粋な愛、無垢、沈黙を象徴します。
赤いバラは、情熱的な愛、欲望、血を象徴します。
オルペウスとエウリュディケの愛は、最初は純粋でした。
だから、白いバラ。
しかし、彼の血が流された時──
愛は、悲しみと痛みを纏いました。
だから、赤いバラ。
白から赤への変化は、愛の深まりを表しているのかもしれません。
純粋な愛だけでは、足りない。
苦しみ、悲しみ、血を流してなお──
それでも愛し続ける。
それが、真実の愛。
それが、赤いバラ。
バラの棘

バラには、棘があります。
美しいけれど、触れれば痛い。
これは、愛の本質を表しています。
愛は美しい。
しかし、愛は痛みも伴う。
オルペウスは、エウリュディケを愛したから、苦しみました。
振り返らなければ良かった──
しかし、愛していたから、振り返ってしまった。
愛の深さと、痛みの深さは、比例します。
バラの棘は、それを教えてくれます。
美しいものには、必ず代償がある。
しかし、それでも──
手を伸ばさずにはいられない。
オルペウス教──音楽が生んだ秘儀宗教
古代ギリシャの異端思想
オルペウスの死後、彼の名を冠した宗教運動が生まれました──オルペウス教(オルフィズム/Orphism)。
紀元前6世紀頃から古代ギリシャで広まったこの秘儀宗教は、当時の主流だったオリュンポス十二神信仰とは大きく異なる教義を持っていました。
オルペウス教の主要な教義
- 魂の不滅──魂は死後も永遠に存続する
- 肉体は牢獄──魂は肉体に閉じ込められている
- 輪廻転生──魂は何度も生まれ変わる
- 浄化と解放──清浄な生活と秘儀によって、魂は輪廻から解放され、神々のもとへ帰れる
これは革命的な思想でした。なぜなら、当時の一般的なギリシャ宗教では、死後の世界(ハデスの冥界)は暗く、魂は影のような存在になると考えられていたからです。
しかしオルペウス教は、魂の浄化と救済という希望を提示したのです。
音楽による魂の浄化
オルペウス教において、音楽は単なる芸術ではなく、魂を浄化する神聖な手段でした。
オルペウスの竪琴が冥界のすべてを静めたように、音楽は魂の深奥に届き、穢れを洗い流す力を持つと信じられていました。
オルペウス教の儀式では、聖なる賛歌(オルペウス賛歌)が歌われ、竪琴が奏でられました。信者たちは音楽に包まれながら、トランス状態に入り、魂の浄化を体験したとされています。
哲学への影響──プラトンとピタゴラス
オルペウス教の思想は、古代ギリシャの哲学に深い影響を与えました。
ピタゴラス(紀元前570年頃〜紀元前495年頃)は、オルペウス教の影響を受け、「音楽と数学による魂の浄化」という思想を発展させました。ピタゴラス教団では、音楽は宇宙の調和(ハルモニア)を表現し、魂を整える手段とされました。
プラトン(紀元前427年〜紀元前347年)の思想にも、オルペウス教の影響が見られます。
- 魂の不滅──『パイドン』で詳細に論じられる
- 肉体は魂の牢獄──プラトンが繰り返し述べる比喩
- イデア論──真の実在は目に見えない世界にあるという思想
哲学者の中には、プラトンの二元論(魂と肉体、理想界と現実界の分離)の起源をオルペウス教に求める者もいます。
キリスト教への影響
興味深いことに、オルペウス教の教義は、後のキリスト教と共通点を持っています。
- 魂の不滅と救済
- 清浄な生活による浄化
- 秘儀(洗礼に相当)による入信
- 共同体での儀式
初期キリスト教の美術では、オルペウスがイエス・キリストの象徴として描かれることさえありました。竪琴を奏でるオルペウスの姿は、「善き羊飼い」のイメージと重ねられたのです。
音楽が持つ力──オルペウスの遺産
境界を越える音楽
オルペウスの物語は、音楽が持つ普遍的な力を示しています。
音楽は、言葉を超えます。
生と死の境界を越え、神と人間の境界を越え、理性と感情の境界を越えて──魂と魂が直接対話します。
ハデス(冥界の王)を涙させた音楽。
三つの頭を持つ番犬ケルベロスを眠らせた音楽。
永遠の刑罰を受けるタンタロス、シシュポス、イクシオンを静止させた音楽。
それは理屈ではありません。魂が、直接揺さぶられるのです。
悲しみを昇華する芸術
オルペウスは、エウリュディケを失った悲しみを、歌にしました。
言葉にならない痛みを、音楽に変えました。
これは、芸術の本質です。
芸術は、悲しみを昇華します。ただ泣くだけでは、悲しみは消えません。しかし、その悲しみを形にする時──歌にする時、詩にする時、絵にする時──悲しみは、美しいものに変容します。
オルペウスの悲しみは、2000年以上語り継がれる永遠の音楽になりました。
記憶を永遠にする力
エウリュディケは、二度死にました。
最初は蛇に噛まれて。二度目は、振り返られて。
しかし──オルペウスの歌によって、彼女は永遠に生き続けています。
2000年以上経った今も、私たちはエウリュディケの名前を知っています。
彼女がどれほど美しく、どれほど愛されたかを知っています。
これが、芸術の持つ不死の力です。
現代に生きるオルペウス──芸術作品の系譜
オルペウスとエウリュディケの物語は、西洋芸術史において最も重要なモチーフの一つであり続けています。特に音楽と演劇の分野で、繰り返し再解釈されてきました。
オペラ──音楽劇の起源
クラウディオ・モンテヴェルディ『オルフェオ』(1607年)
史上初の偉大なオペラとされる作品。オペラというジャンルそのものが、オルペウスの物語から始まったと言っても過言ではありません。バロック音楽の最高傑作の一つ。
クリストフ・ヴィリバルト・グルック『オルフェオとエウリディーチェ』(1762年)
オペラ改革の記念碑的作品。有名なアリア「エウリディーチェを失って(Che farò senza Euridice?)」は、オルペウスの悲しみを表現した名曲として、今も歌い継がれています。
ジャック・オッフェンバック『地獄のオルフェ』(1858年)
風刺的オペレッタ。序曲の「天国と地獄」は、運動会の定番曲として日本でも広く知られています。神話を現代風にパロディ化した作品。
バレエと現代音楽
イーゴリ・ストラヴィンスキー『オルフェウス』(1947年)
新古典主義バレエの傑作。ジョージ・バランシン振付。20世紀のオルペウス解釈として重要。
映画──20世紀の再解釈
ジャン・コクトー『オルフェ』(1950年)
フランスの詩人・芸術家コクトーによる、現代パリを舞台にした幻想的な映画化。鏡が冥界への入口となる独創的な演出。
マルセル・カミュ『黒いオルフェ』(1959年)
舞台をリオのカーニバルに移した大胆な翻案。カンヌ国際映画祭パルム・ドール、アカデミー外国語映画賞受賞。ボサノヴァの名曲と共に世界的ヒット。
文学作品
ウェルギリウス『農耕詩』(紀元前29年頃)
古代ローマの詩人による、オルペウス神話の最も美しい叙述の一つ。
オウィディウス『変身物語』(紀元8年頃)
オルペウスの物語を含む、ギリシャ・ローマ神話の集大成。後世の芸術家たちの主要な参照源。
ライナー・マリア・リルケ『オルフォイスへのソネット』(1922年)
ドイツの詩人リルケによる55編の連作ソネット。オルペウスを「純粋な変容」の象徴として描く20世紀文学の傑作。
なぜオルペウスは繰り返し語られるのか
2000年以上にわたり、オルペウスの物語は何度も蘇ってきました。
なぜでしょうか?
それは、この物語が人間の普遍的な問いを含んでいるからです。
- 愛する者を失う悲しみ──誰もが経験する喪失
- 取り戻せないものへの執着──過去への未練
- 振り返ってしまう人間の弱さ──完璧にはなれない私たち
- それでも愛し続けること──希望
オルペウスは失敗しました。エウリュディケを取り戻せませんでした。
しかし、その失敗こそが──この物語を永遠にしたのです。
完璧な英雄ではなく、愛ゆえに失敗する人間オルペウス。
私たちは、彼の中に自分自身を見るのです。
そして、彼の竪琴は今も──
夜空の琴座(リラ座)として、
私たちを見守り続けています。
神話の旅は、まだ続きます
音楽の向こうへ、次はどの物語へ──
ギリシャの神々と、彼らが愛した花々が、あなたを待っています。
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