日本の公式な歴史書には、その名がない。しかし大祓詞には確かに記され、全国の水辺で今も祀られる女神──瀬織津姫。
清流の女神であり、龍神の化身であり、天照大神の荒御魂ともされる存在です。川の激流に坐し、すべての罪と穢れを大海原へと運び去る。消されたかに見えながら、人々の祈りの中に息づき続けた女神。
星とも繋がり、桜とも結びつく、壮大なスケールを持つ神格。そんな、謎に包まれた瀬織津姫の物語を紐解いていきます。
瀬織津姫──流れを織りなす女神
プロフィール
表記: 瀬織津姫、瀬織津比売、瀬織津比咩
別名
- 向津姫(ムカツヒメ)──伊勢神宮荒祭宮の祭神
- 橋姫(ハシヒメ)──境界を守る女神
- 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)
- 弁財天(神仏習合後)
- 白龍・龍神
役割・司るもの
- 祓い・浄化
- 水の流れ
- 罪穢れの除去
- 境界の守護
- 天と地の循環
- 星の運行(伝承)
シンボルと容姿
瀬織津姫は、激流に坐す女神として描かれます。高山から流れ落ちる滝、岩に砕ける白い泡、複雑に絡み合いながら流れる川の瀬──その水の動きそのものが、彼女の姿です。
龍神として現れることもあれば、清らかな水色の衣をまとった女性の姿で語られることもある。多くの場合、水辺に立ち、あるいは橋のたもとに坐します。
シンボルは清流、桜、蓮、青い花、柳。水の流れるすべての場所が、彼女の領域です。
神々の系譜
父: サクラウチ(桜大刀自神)──『ホツマツタエ』による 夫: アマテル(天照大神の男神としての名)──『ホツマツタエ』による伝承
注記: 瀬織津姫の系譜については、『古事記』『日本書紀』には記載がなく、古史古伝『ホツマツタエ』などの異伝に基づく。正史における位置づけは「天照大神の荒御魂」あるいは「祓戸四神の一柱」とされます。
名前の秘密
瀬織津姫(セオリツヒメ)──この名前には、深い意味があります。
「瀬」──川の浅瀬、早瀬。水が岩に当たり、白く泡立つ場所。
「織津」──流れを織りなす。水が複雑に絡み合いながら流れる様子。
「姫」──貴い女神。
「瀬を織りなす姫」。
川を見てください。
大きな川は、いくつもの支流が合わさって生まれます。
山の小川が集まり、渓谷の流れとなり、やがて大河になります。
複数が、一つに織りなされていく。
瀬織津姫は、その流れそのものです。
大祓詞の中の瀬織津姫──唯一の「正史」
祝詞に刻まれた名
神社では毎日、そして特に6月と12月の大祓(おおはらえ)の儀式で、『大祓詞』が奏上されます。
900字にも及ぶ、深く美しい言葉の連なり。
この国の始まり、人々の罪と穢れ、そして浄化の物語が、豊かな言葉で紡がれています。
その後半に、一柱の女神が登場します。
「高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ
速川の瀬に坐す 瀬織津比売といふ神
大海原に持出でなむ」
高い山の頂から、低い山の頂から、轟音とともに流れ落ちる滝。
激しく流れる川の瀬に坐すのが──
瀬織津姫。
すべての罪と穢れを、大海原へと持ち去ってくれる女神。
この祝詞だけが、瀬織津姫が確かに存在したことを伝えています。
『古事記』にも『日本書紀』にも、その名はありません。
しかし、大祓詞という、最も重要な祝詞の中に、彼女の名は刻まれています。
祓戸四神──浄化の連鎖
大祓詞に登場するのは、セオリツヒメだけではありません。
祓いを司る四柱の神々(祓戸四神)が、それぞれの領分で浄化を担います。
瀬織津姫(セオリツヒメ)
山から流れ落ちる激流の瀬に坐す。
すべての罪穢れを、川から大海原へと持ち去る。
祓いの起点。最初に罪を引き受ける女神。
速秋津比売命(ハヤアキツヒメ)
大海原の、荒々しい潮が渦巻くところに坐す。
セオリツヒメが運んだ罪穢れを、海の底深くへと飲み込む。
海の女神。罪を飲み込む力。
気吹戸主(イブキドヌシ)
気吹戸に坐す、風の神。
海に沈んだ罪穢れを、根の国・底の国へと吹き飛ばす。
風の神。解き放つ力。
速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)
根の国・底の国に坐す。
最後に罪穢れを、どこへともなく消し去る。
最後の女神。完全に消去する力。
川から海へ、海から根の国へ。
水の流れ、風の流れに乗せて、罪はこの世から完全に消えていきます。
その始まりが、セオリツヒメです。
消された女神?──正史からの不在
『古事記』『日本書紀』の沈黙
『古事記』(712年成立)と『日本書紀』(720年成立)──日本最古の正史です。
この二つの書物が、日本神話の「公式記録」とされています。
しかし──
瀬織津姫の名前は、そのどちらにも出てきません。
なぜでしょうか。
なぜ、大祓詞に登場するほど重要な女神が、正史に記されていないのでしょうか。
この「空白」が、長く人々を引きつけてきた謎です。
いくつかの仮説があります。
仮説1: もともと地方神だった
祓いの女神として民間で信仰されていたが、中央の神話体系には組み込まれなかった。
仮説2: 意図的に削除された
何らかの政治的・宗教的理由で、正史から名前を消された。
仮説3: 別の神と統合された
天照大神などの主要な神格に吸収され、独立した神格としては記録されなかった。
真実は、分かりません。
しかし、確かなことがあります。
消されたかに見えながら、人々は彼女を忘れなかった。
大祓詞に名を刻み、全国の水辺で祀り続けた。
伝承の中の瀬織津姫
以下は古史古伝や中世以降の伝承に基づく内容です
『ホツマツタエ』の記録
ホツマツタエ(秀真伝)──古代日本の歴史と神話を記したとされる書物。
正式な歴史書とは認められておらず、「古史古伝」と呼ばれる、真偽の議論が続く文献です。
しかし、そのホツマツタエには、驚くべきことが記されています。
「アマテル神(天照大神)は男神であり、ムカツ姫(瀬織津姫)はその妻だった」
サクラウチ(桜大刀自神)の娘として生まれ、太陽の神アマテルの正室となり、共に国を治めた。
彼女は単なる「祓いの神」ではなく、かつては太陽と一対で輝く、宇宙の根幹を担う存在だった──
もし、これが真実ならば──
瀬織津姫は、日本の最高神・天照大神の妻だったことになります。
そして、何らかの理由で、その地位から退けられた。
それが、正史からの「不在」の理由かもしれません。
注: この説は学術的には認められていません。しかし、多くの人々を魅了し続ける物語として、今も語り継がれています。
天照大神の荒御魂説

もう一つ、重要な説があります。
「瀬織津姫=天照大神の荒御魂(あらみたま)」説。
神道では、一柱の神には二つの側面があると考えられています。
和御魂(にぎみたま)──穏やかで優しい側面。
荒御魂(あらみたま)──激しく強い側面。
天照大神の和御魂は、太陽のように温かく、穏やかに世界を照らします。
しかし、荒御魂は──
激しく、力強く、時に破壊的でもある。
鎌倉時代から室町時代にかけて成立した伊勢神道の文献には、こう記されています。
「伊勢神宮内宮の別宮・荒祭宮の祭神の別名が『瀬織津姫』である」
荒祭宮──天照大神の荒御魂を祀る場所。
そこに祀られる神の別名が、セオリツヒメ。
太陽の女神の激しい魂が、水の流れとなってこの世の罪を洗い流す。
光と水。
陽と陰。
二つで一つの、完全な浄化。
戦前には、兵庫県の廣田神社にも、「瀬織津姫が主祭神」と由緒書きに明記されていたとされています。
しかし、現在の由緒書きには「天照大神の荒御魂」とだけ記されています。
名前は、再び隠されました。
多くの名前、多くの姿
別名の数々
セオリツヒメには、多くの別名があります。
向津姫(ムカツヒメ)
伊勢神宮の荒祭宮に祀られる神。
天照大神の荒御魂として坐すが、中世の神道説においてセオリツヒメと同一視される。
太陽の女神の激しく強い側面が、激流の女神の姿と重なり合う。
橋姫(ハシヒメ)
宇治の橋姫が、よく知られています。
橋とは、境界です。
こちらの岸とあちらの岸。
この世とあの世。
生と死の、狭間。
境界を守りながら、穢れを水に流す神としての性質が、セオリツヒメと深く重なります。
弁財天(ベンザイテン)
神仏習合の時代、仏教の女神・弁財天と結びつきました。
水辺に坐す女神、という共通点が、二つの存在を引き寄せました。
「瀬織津姫=弁財天=龍神」
この図式は、各地の伝承に幾度となく現れます。
龍神・白龍
滝を落ち、激流を駆け、海へと注ぐ──
その姿は、まさに龍です。
水を司り、天と地を繋ぐ龍の姿で、セオリツヒメは全国の水辺で語られてきました。
なぜ、これほど多くの名前があるのか
公式の歴史から名を消されながらも、日本中の水辺で、人々の手によって大切に守り継がれてきたからです。
ある場所では、橋のたもとで穢れを見守る橋姫として。
ある場所では、天照大神の力強い側面である向津姫として。
またある場所では、美しくも恐ろしい龍神、福を授ける弁財天として。
名前を変えながら、姿を変えながら、
瀬織津姫は生き続けました。
瀬織津姫を祀る聖地

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全国各地の神社には、彼女が秘めてきた力強さと清らかさが今も色濃く残っています。
佐久奈度神社(滋賀県大津市)
天智天皇の御代、大祓の儀式を執り行う場として創祀されました。
瀬織津姫を筆頭とする「祓戸四神」を主祭神とし、琵琶湖から流れ出る勢田川の清流そのものが、彼女の浄化の力を象徴しています。
瀬織津姫神社(石川県金沢市)
地名に「別所」とある通り、古くから隠れた聖地としての佇まいを見せます。
その名の通り彼女を主祭神として仰ぎ、水の神としての純粋な信仰が守り伝えられてきた場所です。
廣田神社(兵庫県西宮市)
神功皇后の御代に創建された名社。
ここでは瀬織津姫は「天照大神の荒御魂(あらみたま)」として祀られています。
荒御魂とは、神の躍動する強い生命力。
浄化とは、ただ消し去ることではなく、物事を力強く推し進めるためのエネルギーであることを物語っています。
瀬織津姫と植物──浄化の花々
桜──高貴なる血統の記憶

『ホツマツタエ』の伝承によれば、彼女の父はサクラウチ(桜大刀自神)。
瀬織津姫は、桜と深い縁を持ちます。
一斉に咲き誇り、瞬時にして散り、川面をピンク色に染めて流れていく「花筏(はないかだ)」は、まさに彼女の司る「流し、浄化する」姿そのもの。
桜を飾ることは、彼女の持つ高潔さと、再生の力を招き入れることに繋がります。
蓮──泥水に咲く清浄

蓮(ハス)
- 学名: Nelumbo nucifera
- 科: ハス科
- 原産: インド、熱帯アジア
- 特徴: 泥水から咲く大輪の花
水の神である彼女にふさわしい、水面の女王。
泥に染まることなく清らかな大輪を咲かせる蓮は、私たちがどのような禍事(まがごと)の中にいても、祓い清めることで本来の輝きに戻れることを教えてくれます。
彼女の「ミソギ(身削ぎ)」の精神を体現する花です。
古代から続く蓮

CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
1951年、千葉県の遺跡から、約2000年前の蓮の種が発見されました。
大賀ハスと名付けられたその種を発芽させると、美しいピンクの花が咲きました。
2000年の眠りから、蘇った命。
蓮の種は、長命です。
適切な条件さえあれば、何百年も、発芽能力を保ちます。
消えたように見えても、消えていない。
まるで、瀬織津姫のように。
青い花々──清流と空の投影
瀬織津姫をイメージさせる色は、清らかな「水色」です。
ネモフィラ、アジサイ──青い花々は、彼女が守る美しい川の色であり、彼女が還っていく空の色でもあります。
特に水辺に咲くアジサイや、地面を空色に染めるネモフィラは、彼女の優しくも力強い浄化の波動を運んできます。
柳──龍神のしなやかさ
川辺に揺れる柳は、古くから霊力が宿るとされる樹木です。
水に寄り添い、どんな強風にも折れずに受け流すしなやかな枝は、瀬織津姫が司る「龍神」の動きを彷彿とさせます。
滞ったエネルギーを揺らし、循環させる力を秘めています。
星との繋がり──宇宙規模の循環
伝承・スピリチュアルな解釈による
瀬織津姫の役割は、地上だけではありません。
彼女は「星の女神」としての顔も持っているとされています。
七夕伝説の「織姫(ベガ)」や、天空の中心で揺るがない「北極星」とも関連付けられることがあります。
川を流れた穢れが蒸気となって天に昇り、星の光で浄化され、再び雨となって降り注ぐ。
水は、循環します。
海から蒸発し、雲となり、雨となり、川となり、再び海へ。
そして、また天へ。
永遠に、巡り続けます。
瀬織津姫は、その循環そのものです。
まとめ──流れ続ける女神
瀬織津姫は、謎に包まれた女神です。
正史には名がなく、しかし祝詞には刻まれている。
消されたかに見えながら、全国の水辺で祀られ続けている。
天照大神の妻だったという伝承。
天照大神の荒御魂だという説。
橋姫、弁財天、龍神──多くの名前と姿。
しかし、すべてに共通することがあります。
水とともにあり、浄化を司り、流れ続ける。
川は、止まりません。
どんなに穢れを受け取っても、流れ続けます。
淀まず、清らかに、海へと向かいます。
瀬織津姫は、その流れそのものです。
今も、どこかの川で、彼女は坐しています。
激流の中で、白い泡を立てながら。
私たちの罪を、穢れを、悲しみを、
すべて受け取って、海へと運んでいます。
そして、海から空へ、空から雨へ、雨から川へ──
永遠に、巡り続けます。
川のほとりに立つとき、
水の流れる音を聞くとき、
そっと、彼女に語りかけてみてください。
瀬織津姫が、あなたの心を清らかに流してくれるでしょう。
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