春になると、日本中が桜色に染まります。
北から南まで、山も里も街も──どこを見ても、桜が咲いています。
しかし、「桜」と一言で言っても、実は様々な種類があることをご存知でしょうか。
古来から山に咲いていたヤマザクラ。 優雅に枝を垂らすシダレザクラ。
現代の日本を代表するソメイヨシノ。
千年を生きるエドヒガン。 早春に咲くカワヅザクラ。
豪華な八重咲きのヤエザクラ。
それぞれの桜が、それぞれの美しさを持ち、それぞれの物語を持っています。
日本神話に登場する桜の女神、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)
彼女の名は「木の花が咲き誇る姫」を意味します。
古代の日本語で「花」といえば、桜を指しました。 コノハナサクヤヒメは、桜そのものの化身です。
富士山の女神として祀られる彼女の物語は、桜の儚さ、美しさ、そして強さを体現しています。
この記事では、そんなコノハナサクヤヒメが宿る、様々な桜の種類を、植物学的特徴とともにご紹介します。 それぞれの桜の中に、女神の異なる側面が映し出されているかもしれません。
ヤマザクラ(山桜) – 古来からの桜

- 学名: Prunus jamasakura
- 科: バラ科サクラ属
- 開花期: 4月上旬〜中旬
- 樹高: 15〜25m
- 分布: 本州、四国、九州の山地
ヤマザクラの最大の特徴は、花と葉が同時に展開することです。
多くの桜は、花が先に咲いて、葉は後から出てきます。しかしヤマザクラは、花が咲くと同時に、葉も芽吹きます。
しかも、その若葉は、赤みを帯びています。
白やピンクの花と、赤褐色の若葉──
この色の組み合わせを、古代の人々は最も美しいと感じました。
『万葉集』に詠まれた「桜」の多くは、このヤマザクラでした。『古今和歌集』、『新古今和歌集』も同様です。
「見渡せば 柳桜を こきまぜて 都ぞ春の 錦なりける」 (素性法師『古今和歴集』)
都の春は、柳の緑と桜の紅白が混ざり合った、錦のようだ──と詠んでいます。この「桜」も、ヤマザクラの花と赤い葉を指しています。
一本一本が違う
ヤマザクラは、種子で増えます(ソメイヨシノは接ぎ木)。一本一本が微妙に異なります。
花の色も、白に近いものから、濃いピンクまで。 開花時期も、木によって数日ずれます。 葉の赤みも、濃いものから薄いものまで。
山全体で見ると、それが美しいのです。
一斉に咲くのではなく、少しずつ時間差で咲いていく。 濃淡が混ざり合って、山が霞むように見える。
吉野山(奈良県)の桜は、ほとんどがヤマザクラです。3万本のヤマザクラが、山を覆います。
それぞれの木が、それぞれの時に咲き、それぞれの色を見せる。
まるで、それぞれの人生があるように。
シダレザクラ(枝垂桜) – 涙のような枝

- 学名: Prunus pendula (エドヒガンの枝垂れ性変種)
- 開花期: 3月下旬〜4月上旬
- 特徴: 枝が柔らかく、しなやかに垂れ下がる
- 樹齢: 数百年になる古木が多い
シダレザクラの枝は、まるで柳のように、下へ下へと垂れ下がります。
若い木でも垂れますが、樹齢を重ねるほど、枝は長く伸び、地面に届くほどになります。
代表的な古木
三春滝桜(福島県三春町) – 推定樹齢1000年以上
- 樹高13.5m、根回り11.3m
- 枝張りは東西25m、南北20m
- 日本三大桜の一つ、国の天然記念物
満開時、この巨木全体が、ピンクの滝のようになります。だから「滝桜」という名がついています。
円山公園の祇園枝垂桜(京都市)
- 初代は樹齢200年以上で枯死
- 現在は二代目(初代の種子から育成)
- 夜桜の名所として有名
なぜ枝が垂れるのか
これは、遺伝的な特性です。通常の桜は、枝が上向きまたは横向きに伸びますが、シダレザクラは下向きに伸びます。
植物学的には、ジベレリンという植物ホルモンの量が少ないため、と考えられています。
しかし、この「下向き」が、独特の美しさを生みます。
枝の下に入ると
大きなシダレザクラの枝の下に入ると、桜の天蓋の中にいるようです。
周囲はすべて桜。上も、横も、桜の花と枝に囲まれます。
風が吹くと、無数の枝が揺れます。まるで、桜が呼吸しているように。
そして、花びらが、静かに舞い降ります。
儚くて、優雅で、どこか物悲しい。
枝が垂れ下がる姿が、涙を流しているようにも見えるからかもしれません。
でも、それは悲しみだけではない気がします。
すべてを受け入れた、静かな佇まい。
ソメイヨシノ(染井吉野) – 現代の桜

- 学名: Prunus × yedoensis ‘Somei-yoshino’
- 交配: エドヒガンとオオシマザクラの交配種
- 誕生: 江戸時代後期、染井村(現在の東京都豊島区)
- 増殖: すべて接ぎ木
- 樹高: 10〜15m
- 開花期: 3月下旬〜4月上旬(地域により異なる)
ソメイヨシノの最大の特徴は、葉より先に花が咲くことです。
だから満開時には、木全体が花だけになります。葉が一枚もない状態で、無数の花が咲き誇ります。
純粋に、花だけ。
この潔さが、人々を魅了しました。
そして、ソメイヨシノには、もう一つの特徴があります。
日本中のソメイヨシノは、すべて遺伝的に同一です。
最初の一本から、接ぎ木で増やされてきたため、すべてクローンなのです。
だから、同じ気温条件になると、一斉に開花します。
桜前線
「桜前線」という言葉があります。
春、南から北へ、桜の開花が進んでいく様子を、天気図のように表したものです。
これは、ソメイヨシノがあるからこそ、可能になりました。
日本中が同じ品種なので、気温だけで開花時期を予測できます。
九州から始まり、本州を北上し、最後は北海道へ。
まるで、コノハナサクヤヒメが、日本中を旅しているように。
一斉に咲いて、一斉に散る
ソメイヨシノは、開花から満開まで約一週間。 満開から散り始めまで、また一週間。
そして、一本の木だけでなく、その地域のソメイヨシノすべてが、ほぼ同時に満開になり、ほぼ同時に散ります。
この一斉性が、日本人の心を強く掴みました。
みんなで一緒に咲き、みんなで一緒に散る。
それは、どこか日本的な感性と響き合いました。
寿命の問題
しかし、ソメイヨシノには、問題もあります。
寿命が約60年と、比較的短いのです(ヤマザクラやエドヒガンは数百年生きます)。
そして、すべてがクローンなので、病気に対する抵抗力が同じです。一つの病気が蔓延すると、全滅する危険性があります。
戦後、日本中に植えられたソメイヨシノが、今、一斉に老齢化しています。
桜も、永遠ではないのです。
だからこそ、今年の桜を、大切に見なければならないのかもしれません。
エドヒガン(江戸彼岸) – 長寿の桜

- 学名: Prunus pendula f. ascendens
- 開花期: 3月下旬(春の彼岸の頃)
- 樹高: 15〜25m
- 寿命: 樹齢1000年を超える古木が多数存在
- 特徴: 花柄(花の茎)に毛がある、萼筒が丸く膨らむ
エドヒガンは、桜の中で最も長生きする種類の一つです。
日本三大桜
- 山高神代桜(山梨県北杜市) – 推定樹齢2000年、エドヒガン
- 根尾谷淡墨桜(岐阜県本巣市) – 推定樹齢1500年以上、エドヒガン
- 三春滝桜(福島県三春町) – 推定樹齢1000年以上、エドヒガンの枝垂れ性
三つのうち、二つがエドヒガン、一つがエドヒガンの変種です。
なぜ長寿なのか
エドヒガンは、非常に強靭です。
病気に強く、寒さに強く、厳しい環境にも耐えます。
幹は太く、がっしりとしています。古木になると、幹回りが10メートルを超えることもあります。
樹皮は、深く刻まれた皺だらけになります。まるで、長い年月を刻んだ顔のように。
しかし、春が来ると──
その老木から、若々しい花が、無数に咲きます。
千年生きた木が、まるで若木のように、花を咲かせます。
これほど強い生命力が、他にあるでしょうか。
淡墨桜の伝説

根尾谷淡墨桜には、美しい伝説があります。
継体天皇(第26代天皇)がこの地を去るとき、この桜を植えたと言われています。
「私がこの地を離れても、この桜は、ここに残る」
そして、本当に残りました。1500年以上も。
桜の花の色は、蕾のときは薄紅色、満開時には白、散り際には淡い墨色になります。だから「淡墨桜」という名がつきました。
時を超える
エドヒガンの古木の前に立つと、圧倒されます。
この木は、何世代の人々を見てきたのでしょう。
戦国時代も、江戸時代も、明治も、昭和も、平成も──
すべての時代を、この木は見てきました。
そして、毎年、変わらず、花を咲かせ続けています。
カワヅザクラ(河津桜) – 早春の使者

- 学名: Prunus × kanzakura ‘Kawazu-zakura’
- 交配: カンヒザクラとオオシマザクラの自然交雑種と推定
- 発見: 1955年、静岡県河津町で発見
- 開花期: 2月下旬〜3月上旬
- 花色: 濃いピンク
- 開花期間: 約1ヶ月
カワヅザクラは、他のどの桜よりも早く咲きます。
まだ寒い2月、梅が咲き終わる頃、カワヅザクラが咲き始めます。
濃いピンクの花
カワヅザクラの花は、濃いピンク色です。
ソメイヨシノの淡いピンクとは違う、はっきりとした色。
まだ冬色の風景の中で、この濃いピンクは、強烈な印象を与えます。
春が来る!
そう叫んでいるように。
ゆっくり咲く
カワヅザクラのもう一つの特徴は、開花期間が長いことです。
ソメイヨシノは満開から一週間で散りますが、カワヅザクラは約一ヶ月、花を楽しめます。
ゆっくりと咲き、ゆっくりと散る。
河津桜まつり
発祥の地、静岡県河津町では、毎年2月〜3月に「河津桜まつり」が開催されます。
川沿いに約8000本のカワヅザクラが植えられており、満開時には、川全体がピンクに染まります。
一番早く、コノハナサクヤヒメの訪れを告げる桜。
まだ富士山が真っ白な雪に覆われている頃、カワヅザクラは咲きます。
ヤエザクラ(八重桜) – 豪華な花

- 花弁が6枚以上(通常の桜は5枚)の品種の総称
- 多くの品種がある(カンザン、フゲンゾウ、ウコンなど)
- 開花期: 4月下旬〜5月上旬(遅咲き)
- 特徴: 花が大きく、豪華
主な品種
カンザン(関山)
- 最もポピュラーな八重桜
- 濃いピンク色
- 花弁20〜50枚
- 新宿御苑などで見られる
フゲンゾウ(普賢象)
- 白から淡いピンク
- 花の中心に葉化した雌しべが2本突き出る
- その姿が普賢菩薩の乗る象の鼻に似ているため、この名
ウコン(鬱金)
- 黄緑色の花
- 非常に珍しい色
- 鬱金(ターメリック)の色に似ているため、この名
特徴
八重桜は、一輪でも存在感があります。
何十枚もの花びらが、まるでバラのように、幾重にも重なり合います。
普通の桜が、清楚で可憐なら、八重桜は、豪華で華やか。
最後まで春を惜しむ
八重桜は、遅咲きです。
ソメイヨシノが散り、ヤマザクラが散り、「ああ、桜の季節も終わりだな」と思った頃──
八重桜が咲き始めます。
「まだ、春は終わらないよ」
そう言ってくれているようです。
五月の風に、八重桜の花びらが舞います。
もう初夏に近い、温かな風に。
桜の季節の、最後の贈り物です。
それぞれの桜が、それぞれの美しさを持っています。
ヤマザクラは、多様性を。 シダレザクラは、優雅さを。 ソメイヨシノは、潔さを。 エドヒガンは、永遠性を。 カワヅザクラは、希望を。 ヤエザクラは、豪華さを。
そして、すべての桜が、コノハナサクヤヒメを映しています。
儚く、美しく、強く。
多様で、しなやかで、時を超える。

