イザナミが朝霧を吹き払った。その清々しい息から、風の神が生まれました。志那都比売神(シナツヒメノミコト)、級長津彦命(シナツヒコノミコト)──風を司る神。目に見えぬ風を、どうやって感じるのか。古代の人々は、植物に答えを見出しました。葛の葉が裏返り、葦がさやさやと鳴り、柳がしなやかに揺れる。風の通り道を教えてくれる植物たち。志那都比売神と葛の物語は、目に見えぬものの存在を、目に見える形で伝えています。神の息吹を感じる智慧を紐解きます。
この記事でわかること
- 志那都比売神・級長津彦命とはどんな神か──風を司る神々
- 神の誕生──イザナミの息から生まれた風
- 「級長(しななが)」という名の意味──長く続く息
- 風日祈宮と伊勢の神風
- 葛(クズ)──風を視覚化する葉の裏返り
- 葦(アシ)──豊葦原と風の音
- 柳(ヤナギ)──しなやかな風の舞
- 風媒花と生命の循環
- 台風と神風──破壊と守護の両面性
- 志那都比売神を祀る聖地
志那都比売神・級長津彦命──風を司る神々
プロフィール
表記: 志那都比売神、志那戸辨命、級長津彦命、級長戸辺命
読み: シナツヒメノミコト、シナトベノミコト、シナツヒコノミコト
別名
- 志那津彦神(シナツヒコ)
- 級長戸辺命(シナトベ)
- 風の神
- 風日祈大神(かざひのみのおおかみ)
役割・司るもの
- 風
- 息吹
- 浄化
- 生命の循環
- 航海の安全
- 五穀豊穣(風が花粉を運ぶ)
神々の系譜
父: 伊邪那岐命(イザナギノミコト) 母: 伊邪那美命(イザナミノミコト)
神産みにおいて生まれた、自然神の一柱。
火の神、水の神、山の神とともに、
この世界を形作る根源的な力。
男神か女神か
『古事記』: 志那津彦神(シナツヒコ)──男神
『日本書紀』: 級長戸辺命(シナトベ)またの名を級長津彦命──男神とも女神とも
伊勢神宮 風日祈宮: シナツヒコとシナトベを対の神として祀る
風は、男性的でもあり、女性的でもあります。
激しく吹く暴風は、荒々しい男神のよう。
優しく撫でるそよ風は、柔らかい女神のよう。
伊勢神宮では、二柱を夫婦神として、あるいは同一神の男女両面として祀っています。
神の誕生──イザナミの息から生まれた風
朝霧を吹き払う息
『日本書紀』第六の一書に、美しい記述があります。
「イザナミが朝霧を吹き払った息から、級長戸辺命が生まれた」
朝、山や谷に立ち込める霧。
世界を覆い、視界を遮る白い霧。
イザナミは、その霧を、
ふーっと吹き払いました。
清々しい、朝の息。
その息が、風の神になりました。
息=風=生命
古代の日本人は、
息と風を、同じものと考えていました。
人間の息も、神の息吹も、
自然界の風も、
すべて同じ「いのち」の流れ。
息をすることは、生きること。
風が吹くことは、世界が生きていること。
イザナミの息から風の神が生まれたという神話は、
呼吸=生命という、根源的な真理を表しています。
「級長(しななが)」という名の意味
シナ=息
「シナ」は、古語で「息」を意味します。
また、「シナ」には「しなやか」という意味もあります。
風のように、柔軟に、抵抗せず、流れる──
ナガ=長く続く
「ナガ」は、「長い」。
「級長(シナナガ)」=「息が長く続くこと」
風は、決して止まりません。
強く吹いたり、弱く吹いたり、
しかし、完全には止まらない。
神の呼吸は、永遠に続きます。
それが、風。
それが、志那都比売神・級長津彦命。
風日祈宮と伊勢の神風
伊勢神宮 風日祈宮
風日祈宮(かざひのみのみや)

伊勢神宮の別宮の一つ。
内宮の北西、五十鈴川のほとりに鎮座します。
祭神
- 級長津彦命(シナツヒコノミコト)
- 級長戸辺命(シナトベノミコト)
風の神を祀る、日本最高位の神社。
元寇と神風
文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)
モンゴル帝国(元)が、二度にわたり日本を襲いました。
元寇(げんこう)です。
圧倒的な軍事力。
日本は、絶体絶命でした。
しかし、二度とも、
台風が襲来し、
モンゴル軍の船団を壊滅させました。
人々は、これを「神風(かみかぜ)」と呼びました。
志那都比売神への感謝
朝廷は、元寇の後、
風日祈宮を別宮に昇格させました。
風の神への感謝と、
さらなる守護を祈るため。
風日祈祭(かざひのみさい)

毎年、5月14日と8月4日に、
風日祈宮で祭りが行われます。
五穀豊穣を祈り、
風水害がないことを祈ります。
風は、恵みでもあり、災いでもあります。
穏やかな風は、花粉を運び、作物を育てます。
しかし、暴風は、すべてを破壊します。
風日祈祭は、
風の神に、
「穏やかでいてください」
と祈る祭りです。
葛(クズ)──風を視覚化する葉

葛の植物学
葛(クズ)
- 学名: Pueraria lobata
- 科名: マメ科
- 特徴: つる性多年草。非常に旺盛に成長し、他の植物や構造物を覆う。葉は三出複葉(三枚一組)。
葛の裏風(うらかぜ)

葛の葉には、特別な性質があります。
風が吹くと、葉が裏返ります。
葛の葉は、表が緑色、裏が白っぽい色。
風が吹くと、
葉が裏返り、
白い裏側が見えます。
まるで、葛の葉全体が、
一斉に色を変えたように見えます。
これを「葛の裏風(くずのうらかぜ)」と呼びます。
風を見る
風は、目に見えません。
しかし、葛の葉が裏返ることで、
風が見えます。
古代の人々は、
葛の葉の裏返りを見て、
「ああ、風の神が通った」
と感じました。
和歌の伝統

葛は、和歌で頻繁に詠まれました。
秋風の 吹き裏返す 葛の葉の
うらみても なほ うらめしきかな
「秋風が吹いて裏返る葛の葉のように、
何度恨んでも、なお恨めしい」
「裏」と「恨み(うらみ)」を掛けた歌。
葛の葉は、風の象徴であり、
同時に、心の揺れ動きの象徴でもありました。
葛と志那都比売神
葛の葉が裏返るとき、
それは志那都比売神が現れた証。
目に見えぬ神の存在を、
葛の葉が教えてくれます。
植物は、神の通訳者です。
葛の根──葛根(かっこん)
葛の根は、葛根(かっこん)として、
漢方薬に使われます。
葛根湯(かっこんとう)は、
風邪の初期症状に効く、代表的な漢方薬。
葛の根──葛根(かっこん)
葛の根は、葛根(かっこん)として、
漢方薬に使われます。
葛根湯(かっこんとう)は、
風邪の初期症状に効く、代表的な漢方薬。
風の神の植物が、
「風邪」を治す──
ここで興味深い一致があります。
葛根: 体の表面に留まる風邪(停滞)を追い出し、血流を促して発散させる。
風の神: 朝霧(停滞)を吹き払い、世界に循環をもたらす。
葦(アシ/ヨシ)──豊葦原と風の音

葦の植物学
葦(アシ/ヨシ)
- 学名: Phragmites australis
- 科名: イネ科
- 特徴: 多年生草本。湿地、河川、湖沼の水辺に群生。高さ1〜3メートル。
豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)
日本の古い呼び名。
「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」
- 豊(トヨ) = 豊かな
- 葦原(アシハラ) = 葦が生い茂る場所
- 中国(ナカツクニ) = 高天原(天上)と根の国(地下)の中間
日本列島は、かつて水辺が豊かで、
至る所に葦が生えていました。
葦原こそが、日本の原風景でした。
葦の音
葦が群生する場所に、
風が吹くと──
さやさや、さらさら
葦の葉が擦れ合う音。
葦の茎が揺れる音。
古代の人々は、この音を、
神の声だと感じました。
志那都比売神が、葦原を通り抜けるとき、
葦が鳴る。
風の神の訪れを知らせる音。
風媒花としての葦
葦は、風媒花(ふうばいか)です。
虫や鳥ではなく、
風によって、花粉を運びます。
風が吹くと、
葦の花から花粉が舞い上がり、
風に乗って、他の葦に届きます。
風が、生命を運ぶ。
これは、志那都比売神の役割そのものです。
風は、ただ吹くだけではありません。
花粉を運び、種を運び、
生命の循環を支えています。
柳(ヤナギ)──しなやかな風の舞

柳の植物学
柳(ヤナギ)
- 学名: Salix 属
- 科名: ヤナギ科
- 特徴: 落葉高木または低木。細長い葉、垂れ下がる枝。水辺を好む。
しなやかさの象徴
柳の枝は、非常にしなやかです。
わずかな風にも反応し、
優雅に揺れます。
強い風にも、折れません。
しなって、曲がって、風を受け流します。
「柳に雪折れなし」
雪が積もっても、
柳の枝は、しなって雪を落とし、
折れません。
抵抗しないことの強さ。
これは、風の性質でもあります。
風は、どんな障害物にも、
形を変えて、すり抜けます。
風との対話
柳の枝が揺れるとき、
それは風との対話。
風が語りかけ、
柳が応える。
志那都比売神が通るとき、
柳は、最も美しく舞います。
柳と水辺
柳は、水辺に生えます。
葦と同じく。
川のほとり、
湖のほとり、
池のほとり──
水と風は、切り離せません。
風が水面を撫で、
波紋が広がります。
水が蒸発し、雲になり、
風が雲を運びます。
水の循環も、風が支えています。
風媒花と生命の循環
風が運ぶもの
風は、様々なものを運びます。
- 花粉──植物の受粉を助ける
- 種子──植物の分布を広げる
- 胞子──シダやコケの繁殖
- 香り──花の香りを遠くまで
- 雨雲──水を運ぶ
- 温度──暖かい空気、冷たい空気を移動させる
風は、生命の循環そのものです。
風媒花の例
- 葦
- イネ
- トウモロコシ
- 松
- 杉
- ブナ
これらの植物は、
虫や鳥に頼らず、
風に花粉を運んでもらいます。
志那都比売神は、
植物の繁殖を助ける神でもあります。
五穀豊穣と風
稲作には、風が必要です。
適度な風は、
- 稲の花粉を運ぶ
- 湿気を飛ばし、病気を防ぐ
- 稲を強くする(風に揺られることで茎が丈夫になる)
しかし、台風のような暴風は、
稲を倒し、収穫を奪います。
だから、風日祈祭で、
農民たちは祈りました。
志那都比売神を祀る聖地
風日祈宮(三重県伊勢市)
伊勢神宮の別宮。
日本で最も格式高い風の神の社。
五十鈴川のほとり、静かな森の中。
風が吹き抜ける、清浄な場所。
龍田大社(奈良県生駒郡)
天御柱命(アメノミハシラノミコト)と国御柱命(クニノミハシラノミコト)を祀る。
風の神の別名とされます。
古くから朝廷に崇敬され、
風水害を鎮める祈りが捧げられました。
風神社(各地)
全国に、「風神社」「風宮」と名のつく神社があります。
多くが、志那都比売神・級長津彦命を祀ります。
農村、漁村、海辺──
風と共に生きる人々が、
風の神を崇めてきました。
まとめ──目に見えぬものを感じる智慧
イザナミが、朝霧を吹き払いました。
その清々しい息が、風の神になりました。
志那都比売神。
級長津彦命。
風は、目に見えません。
しかし、古代の人々は、
風を感じることができました。
葛の葉が、裏返るとき。
葦が、さやさやと鳴るとき。
柳が、優雅に揺れるとき。
植物が、神の存在を教えてくれました。
目に見えぬものを、目に見える形で。
呼吸することは、生きること。
風が吹くことは、世界が生きていること。
志那都比売神は、今も吹いています。
あなたの周りを、
世界中を、
永遠に。
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